04

 誰が為の桜か、それを知る者はない。ただ、桜は其処に在り続けた。銀の月の下、その白い体を晒し、毎日毎日、花弁を降らし続けていた。
 桜には、この降り続く花弁の止め方が分からなかった。もし分かっていたとしても、きっと止められなかったであろう。振り続ける花弁は地面を覆い隠していく。
 桜はずっと空を見上げている。月は欠け、再び満ちて、また欠ける。それを何度も繰り返し、繰り返し、見つめていた。彼が美しいと言ったその月を。大嫌いな、自分を見張っているかのようなその月を。花弁を降らし続けながら、ずっとずっと、見つめていた。

**

 どれほどの間、月の満ち欠けを見続けていただろうか。月が何度目かの真円となったその日、桜は、再び彼に会う。
 そこは、海辺だった。桜は、きっと夢でも見ているのであろう。海の傍に在った。銀の月が、静かな海を照らしている。銀色に輝く海の中心、彼はそこに立っていた。背後で、月がやはりまっすぐにこちらを見ている。
 そこで、彼はあの時桜に言った言葉を、もう一度囁いた。その言葉は、桜の花弁を全て攫っていく。あたりは、波の音に包まれる。そこにいるのは、自分と彼、そして銀の月。

「ねえ、君。」

 波の音が聞こえる。静かで優しい、穏やかな音。それはまるで、彼の声のような。

「……待っていてくれて、ありがとう。」

 あの時、彼が桜に言った最期の言葉。その言葉が合図であったかのように、唐突に強い風が吹き始め、静かだった水面が荒れはじめる。潮が満ちて、そこにいる彼の体を溶かしていく。
 桜には、足がなかった。だから、彼の傍に駆け寄って、彼を連れ戻すことができない。
 桜には、腕がなかった。だから、あの時彼を抱きしめることができない。
 桜には、声がなかった。だから、伝えたいことを、伝えられなかった。
 それは仕方のないことだと、当然のことだと、そう、思っていた。

「待って、ください……っ」

 気づいたら、叫んでいた。銀の月が照らす水面に、彼の姿が溶けていく。桜は駆け出す。驚くほどに体が軽かった。自分が今どんな姿をしているのか、どんな顔をしているのか、そんなこと、もうどうでもよかった。今伝えなくては。ただ、それだけだった。

「行かないで、ください……っ 置いて、逝かないで、ください…っ!」

 あの時言えなかったことばを。 本当に言いたかったことばを。
 花弁の奥にしまいこんだことばを、桜は叫ぶ。かすれた声で、確かな「言葉」にして。桜は彼に駆け寄る。駆け寄って、彼の体を抱きしめる。腕は、彼の体のぬくもりを確かに捕えた。

「わたしは、あなた、を、」

 彼の腕が、桜の体を抱きしめ返す。とても暖かくて、優しい温もり。彼の腕に抱かれて、そして彼の体を抱いて、桜は息を吸い込む。もう花弁は散らさない。ただ、声を張り上げて、叫んだ。

「私は、貴方を、愛しています……っ!」

 ありったけの想いを込めた言葉は、彼に届く。
 「僕もだよ」と、彼の優しい声が答えた。桜がずっとずっと恋い慕い続けた、あの声で。桜の言葉に、彼は答えた。桜の体を抱き、桜に抱かれ、桜の大好きなあの笑顔を浮かべて。
 やがて、彼の体は完全に消え去る。温もりが腕から零れ落ちていく。


 もう、彼はいない。


 桜は其処に、一人、蹲っていた。