01

 誰が為の桜か、それを知る者はない。ただ桜は其処に在り、丸い銀の月の下で、その白い体を晒していた。
 桜のように白い体をもつ者はいなかった。故に、桜はいつも気味悪がられ、拒まれていた。たった一人を除いては。
 彼は、とても優しいひとだった。淡い茶色の髪と、健康的な白い肌をしていた。優しげな光を宿した目で桜を見つめ、細い、けれど大きな手で桜を包み込んでくれた。
 桜は、いつも彼を見下ろしていた。彼が桜に語り掛けると、その白銀の体を美しい赤に燃えあがらせてみせた。それはまるで、恋する乙女のような、可憐な赤であった。

「君は、とても美しいね。」

 彼は言い、桜の幹を撫でる。そうされると、桜は心の底から喜びが湧き上がり、その身をさらに赤く赤く染めあげた。彼はそれを知ってか知らずか、慈しむように桜を見つめ、そして語り掛ける。

「君はこんなにも綺麗なのに、どうして皆君を拒むのだろうね。」

 桜は、彼にさえ受け入れてもらえるのであれば、それで良いと思っていた。彼が自分を見つめ、包み込み、美しい、と囁いてくれるのなら。それだけで、良かった。それだけで、幸せだった。
 桜は、彼の、自分に語りかける声に、紡ぐ言葉に、彼という存在そのものに、心を寄せていた。


**


 桜は、彼の住む街全体を見下ろせる高い丘の上に在った。彼は、桜の隣に腰かけ、そこから街を見下ろすのを好いていた。
 彼は愛おしむような瞳で街を見下ろし、その薄く、柔らかな紅色の唇で街への愛を紡ぐ。

「僕は、この街がとても好きなんだ。」

 知っています、と桜は答える。桜には彼のような唇がない。だから、桜の言葉は花弁となり、彼に降り注ぐ。降り注ぐ花弁に、桜はいつだってすべての想いを込めていた。花弁は、桜の心そのものだった。だからだろうか。花弁は彼に触れると薄紅に染まり、彼の身体を優しく撫でるように舞い落ちていく。桜には腕がなかった。だから、彼に触れることができない。それでも、ほんのわずかでも、彼の温もりを感じたかった。その想いを宿した花弁が、彼の身に触れようと舞っているのかもしれない。

「だから僕は、この街を、命に代えても守りたいんだ。」

 そう言う彼の表情は晴れやかで、とても美しかった。
 彼の手には一枚の紙切れが握られていた。桜には、そこに書かれた文字を読む勇気はなかった。けれど、何が書かれているのか、簡単に分かってしまう。
 桜は、ええ、そうでしょうね、と答える。舞い落ちる花弁は、どこか悲しげな色を帯びて彼に降り注ぐ。
 彼は、桜の幹を撫でる。優しい手が、滑らかに桜の体を這う。くすぐったくて、けれど幸せで、桜はその身を赤く染める。

「嗚呼、見て御覧。 今宵は月が美しいね。」

 彼は空を見上げ、言う。彼の視線の先にあるのは、わずかに欠けた銀の月。あと数日もあれば真円になるであろうと思われた。桜は、この銀の月があまり好きではなかった。どこか不気味で、自分をいつでも見張っている、何かの「目」のような気がしていた。けれど、彼が美しい、と言えば、その不気味な銀の月も、本当に美しい、まるで宝石のようなものに見えた。桜は、彼に陶酔していた。

「この銀の月は、君の姿をとても美しく見せる……。」

 舞い落ちる花弁をふわりと掌にのせ、彼はそれにくちづける。花弁は真紅に染まり、風に攫われてゆらりゆらりと舞っていった。
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