02

 誰が為の桜か、それを知る者はない。 ただ、桜は其処に在った。その身を薄紅に染め、まるで誰かに恋するように。
 桜はいつものように、丘の上で彼を待っていた。夜も更け、街が静かに眠りに落ちる頃合い。彼はいつもその刻限に現れる。そして今日も、やはり彼は桜の元を訪れた。まだ真円にはならない銀の月が空に浮かぶ時間。
 その日、彼は軍服を身にまとっていた。真新しい軍服は、彼の男性にしては少し華奢な体には不似合いで、とても悲しい。

「僕は、この街を守るよ。」

 桜の好きな、穏やかないつもの声で、彼は言った。ええ、と桜は答える。悲しげな色を帯びた花弁が彼に降り注ぐ。悲しい色の花弁の中、彼は今までで一番美しい笑みを浮かべていた。それは、波のない海のように静かで、けれど力強い覚悟に満ちた笑みだった。

「君の見下ろすこの街が、いつまでも美しくあれるように。僕の愛するこの街が、いつまでも清らかであれるように。僕は、この街を守ってみせる。」

 凛とした彼の表情と、声。桜は花弁を降らす。それはまるで、「なみだ」のようだった。悲しみに耐えきれず、とめどなく溢れ出す桜のなみだ。

「ねえ、君は、待っていてくれるかい?」

 優しい声が問う。彼は桜の幹をそっと撫でた。彼の手が桜を撫でれば撫でるほど、たくさんの花弁が落ちていく。銀の月が、桜のなみだを照らした。銀に煌めく花弁は、風に揺られて散り落ちていく。

「僕は必ず戻ってくる。 そしてまた、ここでこの街を眺めよう。」

 行かないで、と言いたかった。けれど、彼の真っ直ぐな決意を込めた目を見ると、何も言えなかった。桜は、ただなみだを流し続ける。桜は、待っている、と花弁を降らす。本当の気持ちはたくさんの花弁の奥に隠してしまいこんだ。悲しみの色を帯びた花弁は、彼の元を離れるように風に飛ばされてゆく。

「ありがとう。待っていておくれ。」

 唇のない桜の、振り落ちることばは、きっと彼に届かないのだろう。彼はいつものような優しい笑みを浮かべた。彼の背後で輝く銀の月が、あまりにも輝いて、彼の身体を溶かしてしまいそうだった。